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1980年代半ばの院長の年頭方針の章から引用する。例えば、次の文章。まるで、地域医療構想の構想地域の議論をしているかのようだ。
住民と共感を持って「ともに歩む」 書評: 若月俊一著作集 第六巻 私の病院経営 - 医療、福祉に貢献するために |
1980年代半ばの院長の年頭方針の章から引用する。例えば、次の文章。まるで、地域医療構想の構想地域の議論をしているかのようだ。
この次の国会に、必ず「医療法改正案」が出る。そして、通るだろうということです。これが通りますと、まず、病院の診療内容の審査と監査が、非常にきびしくなる。次に、医療の地域化が統制的に強行される。この地域化をどのように行うかは、知事の裁定によるというのですが、例えばこのへんでは佐久全体を一つの地域とするのか、上田・小県までを含めて東信地区とするのかわかりません。
そして、地域連携の強化、役割分担の明確化が進む話に続いている。
そんな地域の中で医療機関のシステム化とランキングが決まるわけです。中核病院、サブセンター病院、サテライト病院というように、ランクが決まり、組織化が行われる。いままでのように患者さんがどこの病院へも勝手には行けなくなる。次の病院に行くには、前の病院の紹介がないと行けない。医療資源の無駄使いを阻止し、病院どうしの連絡を密にするというアイディアには問題がないのですが、これが官僚統制や行政支配になっては困るという心配があるのです。
紹介状がなければ病院に行けない、もしくは一定の制限を設ける・・・という議論は、2016年度の診療報酬改定において、大病院に紹介状なしで受診する場合は一定額の徴収を義務付けることが決定している。30年の時を経て、同じ議論をしている。
さらに続く文章では、医療機関の連携・システム化において、公的病院の置かれた状況に対する不安を述べている。地域医療構想における公立・公的病院の不安と非常にリンクするものだ。
これから医療機関の”淘汰の時代”がくるというのに、果してこのようなシステム化がうまくいくかどうか。ことに私どものような農協の病院、「公的病院」とはいっても半分民間病院的なところのある病院にとっては、不安があるのです。医療機関の地域化(リジオナリゼーション)、この方法は、イギリスのナショナル・ヘルス・サービスで、そしてまた三年前からはイタリアでも始めていると言います。資本主義の国でもやっているのですから、わが国でもできないはずはないのですが、現在の段階ではたいへんむずかしいと言うべきでしょう。高価な医療器械の購入や施設投資も地域全体の中で決める。地域医療審議会がそれを決めるというのですが、そんなことが今日の自由経済のわが国の実情で、うまくいくのかどうか。しかし、これに対する「日医」や「病院会」の批判力は弱い。そして、この医療法改正案は必ず新しい国会を通過するといわれているのです。そうすると私どもの病院のあり方はずっと変ってくるかもしれません。
地域医療構想の議論は、ここ数年、突然湧いてきたものではなく、30年前にはすでに課題感が顕在化しており、医療法改正等の議論がされていたことが分かる。ただ、30年前の議論と地域医療構想の議論の比較においてひとつ違いを挙げるならば、現在の地域医療構想はデータに基づく議論がなされている点だろう。現時点の医療提供状況と将来の医療需要予測をデータで示し、その上で議論がなされている。乗り越えるべき「課題」こそ似ているかもしれないが、その手段はより具体的なものになるはずだ。しかしながら、いくつかの都道府県で開示され始めた地域医療構想の素案を見ていると、具体的な内容を書いている県もあれば、そうでない県もあるように感じる。結局のところ、データに基づこうが基づかなかろうが、最後は、その都道府県の「覚悟」のようなものが具体性を左右するのかもしれない。
この若月先生の本、とても30年前の話とは思えない、とても興味深い本だった。